動物的情報化
情報を収集するのはもう古い、というのはどういうことかというと:
いまの情報ネットワークシステム全体において、もはや個々の情報にはさほど重要性を見出すことはできない。あるいはそんなふうに重要性を判断し重み付けをしていくのはナンセンスではないだろうか。ということを最近考えている。
たぶんグーグルのいう、情報自身が淘汰を起こす、というのもこれに近い。
自分の場合、Livedoor Readerを使うとき、もはやひとつひとつのエントリを慎重に吟味するようなことはしていない。つまり、情報リテラシーとかいった考え方とは完全に決別した情報への接し方を選択した。(そのため、安易に情報発信するわけにも行かなくなっている。真偽なんてわかりゃしないからだ。)
とにかく1日に数千件のエントリをひたすら「処理」する。一つ一つはどうでもいい。
それでも、インターネット全体で何が起きているのか、何が流行っているのか、何が重要とされているのか、…といったことは充分すぎるほど把握できている。
本当に重要なことは、何度も何度も目にすることになるからだ。
一つ一つを吟味していてもたしかにいずれそうしたアジェンダは見えてくるかもしれないが、流れるように情報を処理してしまったほうが、より全体性に近づくことができるし、結果的に自分自身の問題解決能力を高めることができると思う。
なによりも、視野狭窄とは永久に決別することができる。
さて、情報のインプットに限らず、アウトプットにも同じことが言えるのかもしれない。
一つ一つの主張を吟味し隙のない論理を構築し他者と慎重なコミュニケーションを行う、これまでの”Blog”に対して、
とりあえず思ったことや考えたこと、感じたことをどんどん出していく、”Tumblelog”(Tumbleは転がるような、崩壊したような、という意味である)では、一つ一つのポストは互いに脈絡のない”点”でしかないかもしれないが、 やがてそれら大量の点を通して自分の脳全体のアジェンダを可視化していくような効果が、あるのかもしれない。