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「言語」を用いたとたんに、特権的な「この痛み」というものは、すべての人間が経験できるはずの一般的な「この痛み」へと変換されていってしまうのである。このようにして、経験の特権性は、「言語」によって無残に裏切られるのであるが、しかし話はそれだけでは終わらない。
というのも、私が痛いときに、私にだけ訪れている特権的な経験というものがあるということを、私が知ることができるのはどうしてなのかという問題が残るからである。これに対する永井さんの答えは非常に興味深い。ある経験が私に特権的に訪れるということを私が分かるためには、私と他人とを同じ平面に並べて比較するという視点が必要になるのだが、そのような視点を与えるような働きこそがまさに「言語」の本質なのである。
すなわち、「言語」とは、私に特権的なものを構造的に消去していく働きをもっているのだが、実にそのような消去的な働きをもった言語を媒介することではじめて、私は、私に特権的なものがあるということを明瞭に自覚できるようになっているのである。このような特権性の自覚へと私を巻き込むものこそが、「言語」というものの力なのだ。